飛鳥時代 | 592年-710年(崇峻5-和銅3) | 118年間にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代 | |
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626年(推古34) | 天智天皇 | 672年没 | 第38代天皇。中大兄皇子として知られ、大化の改新の立役者(645年) |
秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ(1) | |||
645年(大化元) | 持統天皇 | 703年没 | 第41代天皇。父は天智天皇 |
春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山 (2) | |||
660年(斉明6) | 柿本人麻呂 | 720没 | 山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、 三十六歌仙の一人でもある |
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む(人麻呂に擬せられた歌)(3) | |||
698年(文武2) | 阿倍仲麻呂 | 770没 | 奈良時代の遣唐留学生。日本への帰国を果たせずに唐で客死した |
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも(7) | |||
?年(元明、707-715) | 猿丸大夫 | ?没 | 三十六歌仙の一人 |
奥山に もみぢふみわけ なく鹿の こゑきくときぞ 秋はかなしき(5) | |||
奈良時代 | 710年-794年(和銅3-延暦13) | 平城京に遷都してから、桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間(狭義では、710年-784年(延暦3)桓武天皇によって長岡京に都が移されるまでの74年間) | |
718年(養老2) | 大伴家持 | 785没 | 三十六歌仙の一人。官位は従三位・中納言(中納言家持) |
かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける(6) | |||
736年(天平8) | 山部赤人 | ?没 | 三十六歌仙の一人 |
田子の浦にうち出でて見れば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ(4) | |||
平安時代 | 794年-1185年/1192年頃(延暦13-建久3) | 桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間 | |
?年(平安) | 喜撰 | ?没 | 六歌仙の1人。喜撰法師とも呼ぶ |
わが庵は都の辰巳しかぞ住む世を宇治山と人はいふなり(8) | |||
?年(平安9頃) | 小野小町 | ?没 | 六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人 |
花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に(9) | |||
?年(平安) | 蝉丸 | ?没 | 音楽家 |
これやこの 行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関(10) | |||
802年(延暦21) | 参議篁小野篁(たかむら) | 853没 | 公卿・文人。官位は従三位・参議 |
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟(11) | |||
816年(弘仁7) | 僧正遍昭(へんじょう) | 890没 | 僧・歌人。六歌仙および三十六歌仙の一人。従五位上・左近衛少将 |
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ(12) | |||
818年(弘仁9) | 中納言行平(在原行平) | 893没 | 歌人・公卿。平城天皇の第一皇子である弾正尹・阿保親王の次男(または三男)。在原業平の兄。正三位・中納言 |
立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む(16) | |||
822年(弘仁13) | 源融(とおる) | 895没 | 嵯峨天皇の十二男。極位極官は従一位左大臣。六条河原院を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれた |
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに(14) | |||
825年(天長2) | 在原業平 | 880没 | 歌人・公卿。平城天皇の孫。阿保親王の五男。従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。六歌仙・三十六歌仙の一人。『伊勢物語』の作者と古くからみなされてきた |
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは(17)『古今和歌集』 | |||
830年(天長7) | 光孝天皇 | 887没 | 第58代天皇 |
君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ(15) | |||
?年 | 藤原敏行 | 907または901没 | 歌人、書家。従四位上・右兵衛督。三十六歌仙の一人 |
すみの江の岸による浪よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ(18)『古今和歌集』 | |||
?年 | 素性法師(そせい) | 910没 | 歌人・僧侶。桓武天皇の曾孫。遍照(良岑宗貞)の子。三十六歌仙の一人 |
今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな(21) | |||
?年 | 文屋康秀(文琳) | 885没 | 歌人。正六位上・縫殿助。六歌仙・中古三十六歌仙の一人 |
吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ(22) | |||
?年 | 大江千里 | ?没 | 学者・歌人。正五位下・式部権大輔。中古三十六歌仙の一人 |
月見れば千々に物こそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど(23)『古今和歌集』 | |||
?年 | 源宗于(むねゆき) | 940没 | 官人・歌人。光孝天皇の皇子是忠親王の子。正四位下・右京大夫。三十六歌仙の一人 |
山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草も枯れぬと思へば(28)『古今和歌集』 | |||
?年 | 坂上是則 | 930没 | 官人・歌人。従五位下・加賀介。三十六歌仙の一人 |
朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪(31)『古今和歌集』 | |||
?年 | 春道列樹(つらき) | 920没 | 歌人。物部氏の一族。六位・壱岐守 |
山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり(32)『古今和歌集』 | |||
845年(承和12) | 菅原道眞 | 903没 | 貴族、学者。宇多天皇に重用されて寛平の治を支え、醍醐朝で右大臣に昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ左遷され現地で没した |
此の度は幣も取り敢へず手向山 紅葉の錦神の随に(24)『古今和歌集』 | |||
845年(承和12) | 紀友則 | 907没 | 歌人・官人。紀貫之の従兄弟。官位は六位・大内記。三十六歌仙の一人 |
久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ(33)『古今和歌集』 | |||
859年(貞観元) | 凡河内躬恒(おおしこうちのみつね) | 925没 | 歌人・官人。三十六歌仙の1人。六位 |
心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花(29) | |||
860年(貞観2) | 壬生忠岑(ただみね) | 920没 | 歌人。三十六歌仙の一人 |
有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし(30)『古今和歌集』 | |||
869年(貞観10) | 陽成天皇 | 949没 | 第57代天皇 |
つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる(13) | |||
872年(貞観14) | 伊勢 | 938没 | 女性歌人。三十六歌仙、女房三十六歌仙 |
難波潟 みじかき芦の ふしのまも あはでこの世を 過ぐしてよとや(19) | |||
873年(貞観15) | 藤原定方三条右大臣 | 932没 | 貴族・歌人。醍醐天皇の外叔父。従二位・右大臣、贈従一位 |
名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな(25)『後撰和歌集』 | |||
877年(元慶元) | 藤原兼輔中納言兼輔 | 933没 | 公家・歌人。藤原利基の六男。従三位・中納言。賀茂川堤に邸宅があったことから堤中納言とよばれた。三十六歌仙の一人 |
みかの原 わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ(27)『新古今集』 | |||
880年(元慶4) | 藤原忠平貞信公 | 949没 | 公卿。藤原基経の四男。延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇のときに摂政・関白になる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった |
小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ(26)『拾遺集』 | |||
?年 | 藤原興風 | ?年没 | 官人・歌人。藤原道成の子。正六位上・治部少丞。三十六歌仙の一人 |
誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに(34)『古今和歌集』 | |||
866年(貞観8) | 紀貫之 | 872没 | 歌人。『古今和歌集』の選者。三十六歌仙 |
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(35) | |||
?年 | 清原深養父(ふかやぶ) | ?年没 | 歌人。孫に清原元輔、曾孫に清少納言。従五位下・内蔵大允。中古三十六歌仙の一人 |
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづくに月宿るらむ(36)『古今和歌集』 | |||
?年 | 文屋朝康 | ?年没 | 歌人。六歌仙・中古三十六歌仙。従六位下・大舎人大允 |
白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける(37)『後撰和歌集』 | |||
?年 | 右近 | ?年没 | 女流歌人。父は右近衛少将藤原季縄。醍醐天皇の中宮穏子に仕えた女房。村上天皇期の歌壇で活躍 |
忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな(38)『拾遺和歌集』 | |||
880年(元慶4) | 源等 | 951没 | 公家。正四位下・参議。小倉百人一首では参議等 |
浅茅生の小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき(39)『後撰和歌集』 | |||
890年(寛平2) | 元良親王 | 943没 | 皇族、歌人。三品兵部卿。陽成天皇の第2皇子。宇多院の妃藤原褒子との恋愛が知られる |
わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ(20) | |||
?年 | 平兼盛 | 991没 | 歌人である。三十六歌仙。父は光孝天皇の曾孫。従五位上・駿河守。「天徳内裏歌合」における壬生忠見との対決が有名 |
しのぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで(40) | |||
?年 | 壬生忠見 | ?年没 | 歌人。壬生忠岑の子。父ともに三十六歌仙。正六位上・伊予掾 |
恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ 思ひそめしか(41)『拾遺和歌集』 | |||
906年(延喜6) | 藤原敦忠中納言敦忠 | 943没 | 公家・歌人。左大臣・藤原時平の三男。従三位・権中納言。三十六歌仙の一人 |
あひみてののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり(43)『拾遺和歌集』 | |||
908年(延喜8) | 清原元輔 | 990没 | 歌人・官人。娘が清少納言。三十六歌仙。従五位上肥後守 |
ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは(42) | |||
910年(延喜10) | 藤原朝忠中納言朝忠 | 967没 | 公家・歌人。三条右大臣・藤原定方の五男。三十六歌仙。従三位・中納言。土御門中納言または堤中納言と号する |
逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし(44)『拾遺和歌集』 | |||
?年 | 曽禰好忠 | ?年没 | 歌人。中古三十六歌仙の一人。六位・丹後掾。長く丹後掾を務めたことから曾丹後(そたんご)とも曾丹(そたん)とも称された |
由良の門を渡る舟人梶を絶え行方も知らぬ恋の通かな(46)『新古今和歌集』 | |||
?年 | 恵慶 | ?年没 | 僧、歌人。恵慶法師とも。中古三十六歌仙 |
八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり(47)『拾遺集』 | |||
?年 | 源重之 | 1000没 | 歌人。清和天皇皇子貞元親王の子である従五位下源兼信の子。従五位下・筑前権守。三十六歌仙の一人 |
風をいたみ岩うつ波の己のみくだけて物を思ふころかな(48)『詞花和歌集』 | |||
921年(延喜21) | 大中臣能宣 | 991没 | 貴族・歌人。三十六歌仙の一人。正四位下・祭主・神祇大副 |
みかきもり衛士のたく火の夜はもえ昼はきえつつ物をこそ思へ(49) | |||
924年(延長2) | 藤原伊尹(これただ/これまさ)謙徳公 | 972没 | 公卿。右大臣藤原師輔の長男で、妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇、円融天皇が即位すると栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めた |
あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな(45)『拾遺集』 | |||
?年 | 藤原実方 | 999没 | 貴族・歌人。左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。中古三十六歌仙の一人 |
かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを(51)『後拾遺和歌集』 | |||
936年(承平6) | 藤原道綱母右大将道綱母 | 995没 | 歌人。藤原兼家の妻の一人で道綱の母。『蜻蛉日記』の作者 |
なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかはしる(53)『拾遺和歌集』 | |||
954年(天暦8) | 藤原義孝 | 974没 | 公家・歌人。摂政・太政大臣・藤原伊尹の三男(または四男)。中古三十六歌仙の一人。子に藤原行成 |
君がため惜しからざりし命さえ長くもがなと思ひけるかな(50)『後拾遺和歌集』 | |||
?年 | 高階貴子儀同三司母 | 996没 | 女流歌人。女房三十六歌仙。藤原伊周の母 |
忘しの行末まてはかたけれはけふをかきりの命ともかな(54)『新古今和歌集』 | |||
?年 | 紫式部 | ?年没 | 女性作家、歌人。『源氏物語』の作者と考えられている。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙。藤原為時の娘。一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えている間に、『源氏物語』を記した |
めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな(57)『新古今集』 | |||
956年(天暦10) | 赤染衛門 | 1041没 | 女流歌人。大隅守・赤染時用の娘。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙 |
やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな(59)『後拾遺和歌集』 | |||
966年(康保3) | 藤原公任大納言公任 | 1041没 | 公卿・歌人。関白太政大臣藤原頼忠の長男 |
滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ(55) | |||
966年(康保3) | 清少納言 | 1025没 | 女流作家、歌人。『枕草子』の作者。 清原元輔の娘。曽祖父は『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙 |
夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ(62)『後拾遺集』 | |||
972年(天禄3) | 藤原道信 | 994没 | 公家・歌人。太政大臣・藤原為光の三男。中古三十六歌仙の一人 |
明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな」(52)『後拾遺和歌集』 | |||
978年(天元元) | 和泉式部 | ?年没 | 歌人である。越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙。敦道親王との恋の顛末を記した『和泉式部日記』の作者といわれる |
あらざらむこの世の外の思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな(56)『後拾遺集』 | |||
989年(永祚元) | 伊勢大輔 | 1060没 | 女流歌人。大中臣輔親の娘。高階成順に嫁ぐ。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人 |
いにしへのならのみやこの八重桜 けふ九重ににほひぬる哉(61)『詞花和歌集』『金葉和歌集』 | |||
992年(正暦3) | 藤原道雅左京大夫道雅 | 1054没 | 公卿・歌人。儀同三司伊周の長男。一条天皇皇后定子の甥 |
今はただ思ひ絶えなんとばかりを人づてならで言ふよしもがな(63) | |||
995年(長徳元) | 藤原定頼権中納言定頼 | 1045没 | 公家・歌人。権大納言・藤原公任の長男。中古三十六歌仙 |
朝ぼらけ宇治の川霧絶え絶えにあらはれわたる瀬々の網代木(64)『千載和歌集』 | |||
998年(長徳4) | 相模(さがみ) | 1061没 | 女流歌人。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙。摂津源氏但馬守頼光の養女。母は能登守慶滋保の娘 |
うらみ侘ほさぬ袖たにある物を恋にくちなん名こそおしけれ(65)『後拾遺和歌集』 | |||
999年(長保元) | 大弐三位藤原賢子 | 1082没 | 女流歌人。女房三十六歌仙。藤原宣孝の娘、母は紫式部 |
ありま山ゐなの篠原風吹はいてそよ人をわすれやはする(58)『後拾遺和歌集』 | |||
999年(長保元) | 小式部内侍 | 1025没 | 女流歌人。掌侍。女房三十六歌仙。父は橘道貞、母は和泉式部。母の和泉式部と共に一条天皇の中宮・彰子に出仕した |
大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立(60)『金葉和歌集』 | |||
1037年(長暦元) | 周防内侍平仲子 | 1109-1111没 | 女流歌人。女房三十六歌仙 |
春のよの夢はかりなる手枕にかひなくたゝむ名こそをしけれ(67)『千載和歌集』 | |||
1055年(天喜3) | 行尊大僧正行尊 | 1135没 | 天台宗の僧・歌人。父は参議源基平 |
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし(66)『金葉和歌集』 | |||
976年(天延4) | 三条天皇 | 1017没 | 第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。在位は1011年-1016年 |
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな(68) | |||
988年(永延2) | 能因法師橘永愷 | 1050没 | 僧侶・歌人。中古三十六歌仙 |
あらし吹くみ室の山のもみぢばは竜田の川の錦なりけり(69)『後拾遺集』 | |||
?年 | 良暹法師(りょうぜん) | ?没 | 僧・歌人。比叡山(天台宗)の僧で祇園別当となり、その後大原に隠棲し、晩年は雲林院に住んだといわれている |
さびしさに宿をたち出でてながむればいづこも同じ秋の夕暮れ(70)『後拾遺和歌集』 | |||
1016年(長和5) | 大納言経信源経信 | 1097年没 | 公家・歌人。権中納言・源道方の六男。正二位・大納言 |
夕されば門田の稲葉おとづれて芦のまろやに秋風ぞ吹く(71)『金葉和歌集』 | |||
?年 | 祐子内親王家紀伊 | ?没 | 女流歌人。後朱雀天皇の皇女祐子内親王の女房。女房三十六歌仙 |
音にきくたかしのはまのあた波は かけしや袖のぬれもこそすれ(72)『金葉和歌集』 | |||
1041年(長久2) | 大江匡房前中納言匡房 | 1111没 | 公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。正二位・権中納言 |
高砂の尾の上の桜咲きにけりとやまの霞立たずもあらなむ(73)『後拾遺和歌集』 | |||
1055年(天喜3) | 源俊頼源俊頼朝臣 | 1129没 | 官人・歌人。宇多源氏。大納言・源経信の三男。従四位上・木工頭 |
うかりける人を初瀬の山おろしよ激しかれとは祈らぬものを(74)『千載和歌集』 | |||
1060年(康平3) | 藤原基俊 | 1142没 | 公家・歌人。父は右大臣藤原俊家。藤原道長の曾孫。従五位上左衛門佐 |
ちぎりおきしさせもが露をいのちにてあはれ今年の秋もいぬめり(75)『千載集』 | |||
1090年(寛治4) | 藤原顕輔左京大夫顕輔 | 1155没 | 公家・歌人。正三位・左京大夫 |
秋風にたなびく雲のたえ間よりもれいづる月の影のさやけさ(79)『新古今和歌集』 | |||
1090年(寛治4) | 藤原敦頼道因法師 | 1182没 | 歌人。藤原惟憲の曾孫。従五位上・右馬助 |
思ひわびさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり(82)『千載和歌集』 | |||
1097年(承徳元) | 藤原忠通法性寺入道前関白太政大臣 | 1164没 | 公卿。摂政関白太政大臣・藤原忠実の長男 |
わたの原こぎいでてみれば久方の雲いにまがふ沖つ白波(76) | |||
1104年(長治元) | 藤原清輔藤原清輔朝臣 | 1177没 | 公家・歌人。藤原顕輔の次男。正四位下・太皇太后宮大進 |
ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき(84)『新古今和歌集』 | |||
1113年(永久元) | 俊恵俊恵法師 | 1191没 | 僧・歌人。父は源俊頼。東大寺の僧 |
よもすがらもの思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり(85)『千載和歌集』 | |||
1114年(永久2) | 藤原俊成皇太后宮大夫俊成 | 1204没 | 公家・歌人。藤原俊忠の子。正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の編者 |
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる(83)『千載集』 | |||
1118年(元永元) | 西行 | 1190没 | 武士・僧侶・歌人。 俗名は佐藤義清。 家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』の作者ともいわれる |
嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな(86)『千載集』 | |||
1119年(元永2) | 崇徳天皇 | 1164没 | 第75代天皇(1123-1142)。退位後は新院 、讃岐院とも呼ばれた |
瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ(77) | |||
?年 | 源兼昌 | ?没 | 歌人・官人。源俊輔の子。従五位下・皇后宮少進 |
淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守(78)『金葉和歌集』 | |||
?年 | 待賢門院堀河 | ?没 | 歌人。女房三十六歌仙・中古六歌仙。父は源顕仲 |
なかゝらむ心もしらす黒髪の乱てけさは物をこそおもへ(80)『千載和歌集』 | |||
1130年(大治5) | 殷富門院大輔 | 1200没 | 歌人。女房三十六歌仙。父は藤原信成。母は従四位式部大輔菅原在良の娘 |
見せはやなおしまのあまの袖たにもぬれにそぬれし色はかはらす(90)『千載和歌集』 | |||
1139年(保延5) | 徳大寺実定後徳大寺左大臣 | 1192没 | 公卿・歌人。右大臣・徳大寺公能の長男。正二位・左大臣 |
ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる(81)『千載和歌集』 | |||
1139年(保延5) | 寂蓮藤原定長 | 1202没 | 歌人、僧侶である |
村雨の露も未だ干ぬ槇の葉に霧立ち昇る秋の夕暮(87)『新古今和歌集』 | |||
?年 | 皇嘉門院別当 | ?没 | 女流歌人。父は源俊隆。崇徳天皇の中宮皇嘉門院藤原聖子(摂政藤原忠通の娘)に仕えた |
難波江の葦のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき(88)『千載和歌集』 | |||
1141年(永治元) | 二条院讃岐 | 1217没 | 歌人。女房三十六歌仙。父は源頼政。母は源斉頼の娘 |
わか袖は塩干に見えぬ沖の石の人こそしらねかはくまもなし『千載和歌集』(92) | |||
1149年(久安5) | 式子内親王 | 1201没 | 皇女、賀茂斎院である。新三十六歌仙、女房三十六歌仙。後白河天皇の第3皇女。母は藤原成子(藤原季成の女) |
玉のをよたえなはたえねなからへは忍ふることのよはりもそする(89)『新古今和歌集』 | |||
1155年(久寿2) | 慈円前大僧正慈円 | 1225没 | 天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記した。父は摂政関白・藤原忠通 |
おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣に墨染の袖(95)『千載集』 | |||
1158年(保元3) | 藤原家隆従二位家隆 | 1237没 | 公卿、歌人。藤原兼輔の末裔で、権中納言・藤原光隆の次男。従二位・宮内卿。『新古今和歌集』の撰者の一人 |
風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける(98)『新勅撰集』 | |||
1162年(応保2) | 藤原定家権中納言定家 | 1241没 | 公家・歌人。正二位・権中納言。父は藤原俊成、母は美福門院加賀(藤原親忠女)、子に藤原為家。小倉百人一首の撰者 |
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ(97)『新勅撰集』 | |||
1169年(嘉応元) | 九条良経後京極摂政前太政大臣 | 1206没 | 公卿。従一位、摂政、太政大臣。摂政関白・九条兼実の次男 |
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかもねむ(91) | |||
1170年(嘉応2) | 飛鳥井雅経参議雅経 | 1221没 | 公家・歌人。刑部卿・難波頼経の次男。二条または明日香井を号す。飛鳥井家の祖 |
み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり(94)『新古今和歌集』 | |||
1171年(承安元) | 西園寺公経入道前太政大臣 | 1244没 | 公卿・歌人。西園寺家の実質的な祖。従一位太政大臣 |
花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものは我が身なりけり(96)『新勅撰集』 | |||
1180年(治承4) | 後鳥羽天皇尊成 | 1239没 | 第82代天皇(1183-1198)。高倉天皇の第四皇子、母は坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟。第1皇子の為仁親王が土御門天皇に、続いて第3皇子の守成親王を順徳天皇にし院政を行う。1221年、承久の乱を起こす。大敗し鎌倉幕府によって後鳥羽上皇が隠岐島に流される |
人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふ故にもの思ふ身は(99)『続後撰集』 | |||
1192年(建久3) | 源実朝鎌倉右大臣 | 1219没 | 鎌倉幕府第3代征夷大将軍。源頼朝の第6子で12歳で征夷大将軍に就く。武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより源氏将軍は断絶した |
世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも(93)『新勅撰集』 | |||
1197年(建久8) | 順徳天皇守成 | 1242没 | 第84代天皇(1210-1221)。後鳥羽天皇の第三皇子。母は高倉範季の娘・重子(修明門院)。承久の乱の後、佐渡へ配流 |
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり(100)『続後撰集』 |
百人一首人物生誕年表
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