1700〜

1700年大北方戦争(~1721)<スウェーデン(バルト帝国)VSその他の国々>
1701年スペイン継承戦争(~1713)<ハプスブルク君主国・神聖ローマ帝国・イングランド王国VS フランス王国・スペイン帝国・カスティーリャ王国>
1702年ペロー没(1628-)
1707年大ブリテン王国、成立
富士山が噴火
1710年清で『康煕字典』が完成
1713年ユトレヒト条約
1714年イギリスのジョージ1世が即位し、ハノーバー朝が始まる
ラシュタット条約
1720年広東に公行創設
1724年4月22日、イマヌエル・カント(1724-1804)、ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)に生まれる
1726年イギリスのスウィフトが『ガリバー旅行記』を著す
1727年キャフタ条約~清とロシアが国境を画定
1728年がチベットを征服
1732年清の雍正帝が軍機処を設置
享保の大飢饉
1735年清の乾隆帝が即位
1740年カント、ケーニヒスベルク大学に入学する
オーストリア継承戦争(~1748)
1746年大学を卒業。卒業論文の題名は「活力の真の測定に関する考察」
1747年アメリカのフランクリンが電気の概念を確立
1748年アーヘン和約
モンテスキューの『法の精神』なる
1750年フランクリンが避雷針を発明
吉宗が死去
1754年カント、「ケーニヒスベルク週報」で「地軸の回転によって地球がこうむる変化」、「地球は老衰するか」を発表
1755年カント、『天界の一般自然史と理論』を出版、私講師就職論文『形而上学的認識の第一原理の新解明』出版。ケーニヒスベルク大学の私講師になる。論理学、数学、物理学、形而上学を講義。
1760年イギリスの産業革命(~1840)
1762年ルソーが『民約論』を著す
カント、『神の現存在の論証の唯一可能な証明根拠』を出版。ウィーンでは禁書扱いになる。『三段論法の四つの格の誤った煩瑣性』を出版。ルソーの『エミール』が出版され、これを読んだカントは後年、ルソーから「人間を尊敬する」ことを学んだと告白する(『美と崇高の感情に関する考察』覚え書き)。ヘルダー、カントの講義を聴く
1763年パリ条約~英仏講和
1764年カント、『美と崇高の感情に関する考察』を出版
1765年イギリスのワットが蒸気機関を改良
明和事件
1766年カント、『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』を出版。ケーニヒスベルク王立図書館副司書になる(1766-1772)
1770年カント、正教授就任論文『感性界と知性界の形式と原理』を出版。鉱物学を講義する
1772年プロシア・ロシア・オーストリア間で第一回ポーランド分割が始まる
1773年プガチョフの乱(~1775)
ボストン茶会事件
解体新書
1775年アメリカ独立戦争(~1783)
1776年アメリカ独立宣言
イギリスのアダム・スミスが『国富論』を著す
1781年カント、『純粋理性批判』を出版
1782年四庫全書」なる
1783年カント、『将来の形而上学のためのプロレゴーメナ』を出版
パリ条約 ~イギリスがアメリカの独立を承認
天明の大飢饉
1787年カント、『純粋理性批判』第二版、『実践理性批判』を出版
アメリカ憲法成立
寛政の改革
1788年カント、ニヒスベルク大学学長に再任される
1789年ワシントン初代大統領、就任
フランス革命
1790年カント、『判断力批判』、『新しい純粋理性批判は古い批判によってすべて無用にされるはずだという発見について』を出版
1792年エカチェリーナ2世がラクスマンを日本に派遣
1793年カント、『単なる理性の限界内の宗教』を出版
1794年カント、『単なる理性の限界内の宗教』の改訂第二版を出版。宗教・進学に関する講義、著作を禁ずるフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世の勅令が出される。嫌疑を否定しながらも「陛下の忠実な臣下として」勅令を感受することを表明テルミドールの反動
1795年カント、「永遠平和のために」を出版
1796年カント、『永遠平和のために』の改訂第二版を出版。論理学で最終講義を行う
白蓮教徒の乱(~1804)
1799年ブリュメール18日のクーデター
イタリアのボルタが電池を発明
本居宣長の「古事記伝」